現在、日本全国で数多く発行されている新聞。そのはじまりの地が中華街にあります。
関帝廟の近く、「日本における新聞発祥の地」の石碑が建つ、かつての居留地141番地で、開港から5年ほど後の1864年(元治元年)日本初の日本語新聞が作られました。新聞の名前は『海外新聞』です。



発行者であるジョセフ・ヒコは、兵庫県生まれの日本人で、日本名は浜田彦蔵。アメリカ国籍をもった帰化人第1号でした。
ヒコは、1850年(嘉永3年)、13歳の時に遠州灘で暴風にあい、太平洋を漂流…。アメリカ商船に救われ渡米します。そのままアメリカで暮らすこととなり、カトリックの洗礼を受けジョセフ・ヒコを名乗りました。
そして21歳となったヒコは、アメリカ領事館ハリスの通訳として帰国。開国直後の日米交渉などで大活躍します。(石碑には「リンカーン米大統領と握手をした唯一の日本人」と刻まれています。)

そんなヒコは、4月8日『海外新聞』を創刊します。発行にあたっては、日本初の和英辞典の編集に携わった岸田吟香(ぎんこう)らも協力。外国商船などで持ち込まれた外国の新聞を翻訳し、最新の海外ニュースを国別で紹介したほか、商品相場や広告なども掲載されました。
現在の新聞とは異なり、二つ折りの半紙を4~5枚重ね和綴じした冊子のようなもので、木版刷り。創刊時の定期購読者はわずか4名だったそうです。

『海外新聞』は、1866年(慶応2年)、ヒコが長崎へ転居するのを機に廃刊。26号が最終号となりました。
その後イギリス人やアメリカ人による日本語新聞の発行が続き、ついに1871年1月28日(明治3年12月8日)、日本初の日刊の日本語新聞『横浜毎日新聞』が創刊されます。

維新前夜の頃、「新聞」というものを通じて欧米の民主主義を伝えたジョセフ・ヒコ。その功績は後の日本に大きな影響を与えたといえるでしょう。